英語で論文を書く。
それは日本の自然科学系の研究者であれば、もはや当然の常識となりつつあることだ。確かに研究者個人の視点から言えば、日本語という小さな島国のローカルな言語で情報を発信をしていてもその功績が認められる可能性は低い。事実、先進的な研究をしながらもその論文が日本語であったばかりに認められなかったケースは無数にあったのも確かだ。それゆえに彼ら日本の研究者は英語で論文を書き始めたのだろう。それは決して責めることはできない。
しかし、である。
そうした日本人研究者という個人レベルでは最適である英語で論文を書くという行為が日本と言う国レベルでは必ずしも費用対効果では望ましくないメカニズムがあることを本論は指摘する。それはすなわち英語を基軸とする共有生産の方式は用いる者の言語の距離(使い勝手)によって、長期的には科学力や研究力が現状の国力(資金量や労働量)そして使用言語の距離によってその関係が再生産されてしまうという点である。これは従来の言語帝国主義論ではされてこなかった数理モデルによる指摘でもあり、既存の日本の言語政策や科学政策を問い直すものと言えるだろう。
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【タイトル】
共有生産による社会的再生産のメカニズム
―日米の科学論文において,なぜ論文シェアの差と論文生産数の差が連動しないのか? ―
【要旨】
各国の科学力の比較指標として論文シェアが用いられている.一般に論文シェアと科学力を同一視して考えることが多いためだ.その一方で日米間の論文生産で論文シェアの差と論文数の差が連動していないデータがある.この原因を調査するために数理モデルを元に日米の論文生産のシミュレーションを行った.比較したモデルは情報資源を共有せずに生産する非共有モデルと,情報資源を共有して生産する共有モデルである.結果は共有モデルのほうが現実の現象を無理なく説明することができた.共有モデルは増殖率の大小に関係なくシェアの増減がある場合があるためだ.このことから論文シェアで科学力を推定することは危険が伴うと考えられる.また共有モデルは各グループの社会関係を継続的に再生産する性質がある.このことから言語帝国主義的なメカニズムが少なからず働き,社会的ジレンマが生まれていると考えられる.そして科学技術政策の観点からは,共有生産による社会的再生産のメカニズムを考慮したうえでの戦略・政策が必要となる.
キーワード:社会的再生産,科学論文,言語帝国主義,言語政策
著者:松本従超
編集、タイトル画像:理崎ヒカル
編者ブログ
http://rizaki.7narabe.net/
文字数:約12000字(原稿用紙換算で約30枚)
※なお本書は数式や表を記載する関係でPDF文書からKindle用にコンバートしています。そのためスマートフォンでは文字が小さく読むことが難しくなります。10インチ以上のタブレットの横置きやそれ以上の大きさでのモニタでお読みください。