哲学者は冗談を余り言わないというイメージが一般的にあります(たとえば,カント,ウィトゲンシュタイン,ニーチェ,西田幾多郎など)。しかし,ユーモア好きな哲学者も数は多くはないが存在します。バートランド・ラッセルもその中の一人であり,ラッセルの場合は,真面目な理論哲学書のなかに,突然とびっきりの冗談や面白い喩えが出てきたりします。ラッセルは,原則として,執筆活動で生計をたてていたため(また家族を養っていたため),幅広い読者を引き寄せるための読者サービスの意味もあったと思われます。ラッセルの著書の愛読者の多くが,ラッセルのウィットやユーモアや皮肉や毒舌を楽しんでいます。
これに対しウィトゲンシュタインなどは冗談一つ言わないというイメージがあります。そのウィトゲンシュタインの信奉者,と言って悪ければ,ウィトゲンシュタインの考え方に強い共感を抱いている,お茶の水女子大学名誉教授で哲学者(というより,哲学の先生)の土屋賢二氏は,(本人は真面目な本は3冊しか書いていないと公言していますが)ユーモア・エッセイ集をたくさん出しています。女性ファンも多いそうです。
土屋賢二氏に師事したお茶大哲学科出身の知人の女性が,土屋氏の著書を愛読しているとどこかに書いていたのを思い出し,数年前に試しに読んで見たところ,とても面白いものでした。そこでそれ以来愛読し,これまでにほとんどの「作品」を「読破」しました。(読んだ本の中には,数少ない真面目な本の1冊『ツチヤ教授の哲学講義』(岩波書店)や『猫とロボットとモーツァルト』(勁草書房)も含まれています。)
分析哲学者,特に日常言語学派(オクスフォード学派)の哲学者は,哲学の問題の多くは存在しないか,問題の設定の仕方が悪いか,のいずれかであると主張する人が多くいます。土屋賢二氏も,後期ウィトゲンシュタインの影響を強く受け,日常言語の曖昧さを俎上にのせて,従来の哲学者は(また世間一般の人も日頃)いかにまずい問題のたて方をしているか,また,曖昧な言い方をしているか,茶化しながら,一体何が問題なのか,問題にすべきことは本当にあるのか,ユーモア爆弾をぶつけて粉砕しています。
哲学の問題を言語の使用法の問題に還元しようとする,このような日常言語学派の哲学及び哲学者に対しては,(独仏などの)大陸の哲学者からだけでなく,ラッセルも,言語分析の重要性を認めながらも,哲学はそれ(日常言語の分析)だけで終わってはいけない,世界観や存在等の問題をおろそかにしてはいけない、という考えのもと,日常言語学派の哲学者たちを手厳しく批判しています(批判しました)。
ということではありますが,土屋賢二氏の哲学エッセイ本は、気分転換用・軽読書用としては,最適であり,食わず嫌いで哲学が嫌いな人や興味のない人には有益であると思われます。土屋氏は,従来哲学の問題とされてきたこと,多くの人が重要な問題だと思っていることについて,問題ではないあるいは問題の建て方がよくないということを,いろいろな角度から,疑問を呈して,「(哲学の)問題の解消」に努めています。
しかし、ラッセルはそういったことで哲学の問題を解消できるとは思っていません。また,ユーモアも,土屋氏のユーモアのように面白いけれどすぐに忘れてしまうようなものではなく,より中身(内容)があり,考えさせるようなユーモア・ウィット・皮肉・毒舌となっています。本書をお読みになって気に入ったら,是非,ラッセルの著書を実際にお読みになっていただければ幸いです。
最後に,ユーモアとウィットの違い,皮肉と毒舌との違いなどについて,以下、少しだけ蛇足を付け加えておきます。それぞれの笑いの特徴をあげると,次のようなものでしょうか? なお,本書において,便宜上,「ユーモア及びウィット」,「皮肉及び毒舌」,「その他」に分類しましたが,あくまでも大雑把な仕分けであり,余り厳密考えないでいただければと思います。
(1) ユーモア
・人間や人生の逆説・矛盾・滑稽さなどを,人間共通の弱点として,寛大な態度でながめ楽しむ笑い,あるいは,自分を客観視して笑ってみせるしみじみとした情緒をもった笑い。
・皮肉の要素はあまり含まれない。また、漱石が言うように「知に働いて角が立つこともなく,情に棹さして流される」ところがないおかしみ。
・読者の知的レベルに関係なく多くの人が共感しそうなおかしみ。
(2) ウィット(機知)
・知的なおかしみ。
・言っている内容(知的なもの)がよくわからないと共感を呼ばないかもしれないもの
・駄洒落は含まれない。
(3) 皮肉
・人を揶揄したり茶化したりするもので,軽い非難が含まれている笑い。
(4) 毒舌
・毒がある笑い。
・特定の個人やグループに罵倒をあびせる時に使われ,人を傷つける場合が多い。
・笑いがほとんどないが,その毒舌を痛快に感じる人には笑いが生じる